昭和41年07月20日 夜の御理解



 教団では、あの信行期間に中っておるんですね。夏の言わば修行中。それにその一説にこういう事が書いてある。いつも間にか知らず知らずに一般世族と変わらぬ信心に流れてしまうおそれがあると思えるのでありますと言う。信行期間を迎えて改めてお道の信心の基本姿勢は何かを考え直し、求めなおしてみる必要を感じるのであります。と。基本姿勢、お道の信心の基本姿勢とか、また知らず知らずに世俗一般の考え方と変わらないようになってしまうということを。
 現在の教団もやはり、それの内容はどう意味か分かりませんけれども、まあ感じておられるんじゃないかというふうに思うですね。ですからこの、世俗一般の考え方と言うのは、結局常識からでない信心なんです。私、、まあそこんところを答えを出してはないですけれども、私に言わせればそうなんですね。もう実に、この常識的な信心。私今朝から頂きます事に、今朝私が思い出そうとして思い出せなかったんですけれど、只今、御祈念中にちょっと思いださして頂いたんで。
 今日これ見せて頂いてそれとこう、なんかつまり通じるような感じがいたしましたんですけど。もう、修行せずには力を受けられんと言う意味の事をいただいとりました。修行なしには力は受けられない。例えばあの、お道の、これだけの信奉者の中にはほんとにあの、ほんとにお徳を受けたいと、ね、もうお徳と言うのは、昔の先生方の博売特許じゃない。我々も受けれるんだと。
 お徳を受けたいと願うような人たちも沢山おる増して、学院にお道の教師を志望する、その青年の方達なんかって言うのは、もうお徳を頂かなければやっぱ人が助かるとというなのは出来んというような考え方はいちお、まあするだろうとこう思うです。ところがその、肝心要の教えられるところがです、もうお徳を受ける為の信心などということはもう教えずに、もう、いわゆる世俗的になっておる。
 一般的になっておる。常識的になっておる。ね。そういうような、私信心がです、そのお道の上にもまたは椛目の信心を頂いておる層の上にもです、ね、そういうこの、言うなら楽な信心に留まっておるような気持ちがいたします。なるほど、おかげを受けられるにいたしましてもです、ね、お徳を受けていくとか、力を受けると言うようなことは、私はそんなものではない。
 やっぱり修行なしには力を受けられないと。まあこの意味はどういうふうに、の意味でこう言うておられ、書いておられるか分かりませんけれども、私、その中んとこだけ鉛筆でちょっと印さして頂いて、それを感じたんですけどね。あの、一般世俗と変わらぬ信心に流れ、私はもう、今のお道の信心こそ一般世俗の、と変わらぬ信心に流れておるような気がいたしますですね。だから、椛目などももう、やはりそういうことに流れるやはりおそれが何時の間にか知らず知らずのうちに、楽な方へ楽な方へと走る。
 私が言う、お道の信心は、いかにも非常識のようにもあるけれども、私のは非常識ではないと。もう超を付ける、で呼ばなければならん。超私の常識だと。ね。そういうところを今の教団では教える事を忘れておるのじゃなかろうかと。ね。教祖の神様のご信心の、いわゆる、御一代に信心の中に流れておる人間の知恵や力では及びも付かない、言わば体験をです。しかも実意丁寧神信心の中から、この現しおいでられたと。
 そこの、そこに流れておるもの、もうとにかく、人が助かりすればよいと言う、ね、とても人が助かると言ったようなこと。ね。それは、やっぱ医者に見せとかないかんばい。ね。お薬も神様のお恵みのものじゃから。というようなです、あの、事を私今日はまあ世俗的、一般の信仰というふうに申しとります。ね。そこにほんとに御神意を悟らしてもろうて、その病気なら病気と、それこそ神様の神愛と言う名の病気なのだからそこを悟らせようとする。そこを悟らして頂いて、ね、
 それをそう受けていくために、私修行が日頃なされていなければ、受け止める事は出来ない。必ず二の足を踏む、必ずヨロヨロする。ね。それが、なら表行のひとつも本気で、これだけはと言ったような、修行でもなされておる時には、それがあんがい平気でなされる。成し遂げていく事が出来るんです。どうも今の教団では、毎年この暑い間を信行期間として、修行なさっておられるので御座いますけれども、こここでは、特別とりたててはいたしません。
 けれどもほんとにそういう信行をです、本気で私どもはこの、繰り返し続け抜かせて頂かなければ、ほんとに世俗信仰に終わってしまう。ただ、ただ申しますならば、神様のお守りはそれで受けていけるかもしれん。神様のご守護は受けていけれるかもしれん。けども人が目を瞠るような、やっぱ特別のおかげにゃなっていかん。特別のおかげと言うのは、お徳を受けなければ特別のおかげが頂かれる筈もなかならければ。
 現れる筈もないもんですね。ここんとこを私はこう今の教団ではおろそかにしておるような気がするです。なら椛目がそこが出来ておるかというと、椛目の信心の中にすらです、言うならばそういうような、事が言えるとこう思う。もうただ、いわゆる非常にこの常識的になってくる。もうとにかく神様の前なら。ね。前には進んでも後ろには一歩だって退かんぞといったような、そういう不退転なものが確かに薄うなってきたというような感じがいたしますですね。
   どうぞ。